幕末の日本人のエートス(2)

徳川幕府は始め、下剋上など行儀の悪い武士を教育し、体制を強化するために、中国から儒教の集大成である朱子学を導入しました。それまでの武士の下剋上の気風を改めて、目上に盲目的に従う行儀のよい武士になるように、武士道を鼓舞し始めたのそのためです。
それまでの武士は、一生懸命=一所懸命、つまり、エネルギーや物質を農作物として取得できる土地を貰う為に命を掛けていたのです。例えば、元寇の折、上陸してきた元軍に対し肥後の住民、竹崎季長は先駆けを行い負傷しましたが恩賞が有りませんでした。そこで、自分の活躍を絵巻物にしてはるばる、鎌倉に出向き幕府に直訴、恩賞地を貰い地頭に任じられました。時の執権であった北条時宗はこのような一所懸命の、土地の為に命を掛ける侍こそ、来るべき元との決戦に不可欠だと考えたのです。しかし、徳川幕府は一所懸命の報償目当てに懸命になるのでなく、損得に関係なく主君に忠節を尽くす朱子学で進める忠義を勧めたかったのです。

歴史の不思議はそれに応える思想が、江戸時代の日本で独裁的な徳川幕府に不満を持つ人の中に現れて来たことです。朱子学の本家である中国の状況と万世一系、連綿と続く皇室の体制との違いに気付いたのが山崎闇斎を始祖とする崎門学の面々です。
元々、中国人は中華思想で自分たちが一番偉いと思い、周囲の部族は夷荻として差別していますが、明が北方からの金、清に侵略されます。中国は革命の国、政治が乱れると天命が次の権力者(侵略者)に移るのですが、それは夷荻が中華に置換されるに過ぎない。山鹿素行や山崎闇斎らはそのような中国の革命の思想を否定します。そして、革命によって君主が替わる本家の中国は中華ではあり得ず野蛮で、万世一系、連綿と続く皇室を戴く日本こそが本当の姿だ、世界の中心であり中華である-華夷の弁-と思い始めます。そして、君臣の義で天皇に絶対的に忠義を尽くすことと思います。

又、明の復興の為に無駄だと知りつつ奮闘した人達もいます。その一人だった朱舜水が日本の援助を再三望んで日本に到り、日本に亡命し、水戸光圀の知遇を得ます。そして、彼は、自分と同じ様に私心なく正統だと信じる王朝のために勝ち目の無い戦いに殉じた楠正成と言う日本の武士を見つけます。本居宣長等の国学が発達し、激しい尊皇思想が崎門学派や水戸藩の中に芽生えるのです。
勿論、水戸光圀は天下の副将軍、当初は水戸藩にとって武士を統制するには徳川家だけが征夷大将軍を拝命している天皇の権威を高めることが目的なのでした。
しかし、崎門学は富貴を求めないストイックな態度から広く支持されるようになり、又、海外への徳川幕府の対応への不信から、勤皇思想は一般に広まって行き吉田松陰のような指導者の元に維新の志士と言われるような人々も育って行きました。

ところで、徳川家にとっても危険になってきた尊皇活動に対し、井伊大老は安政の大獄と言う大弾圧を加え、水戸藩のような徳川家中でも勤皇の傾向を持つ有力者に対しても圧力を掛けます。しかし、井伊直弼は反発した脱藩水戸浪士と脱薩摩浪士によって桜田門外で打ち取られます。
紀州藩出身の将軍家持が病死した後は、水戸藩から慶喜が将軍になりますが、英明で豪胆と噂されたにも拘らず、鳥羽伏見の戦いに敗れると早々に戦場を離脱、大阪から江戸へと逃げてしまいます。勤皇の水戸藩で育った彼には錦の御旗に刃向かう気は最初から毛頭なかったのです。
それから先は、一気呵成に西郷隆盛と勝海舟の江戸攻めの談合、「お任せします」の一言で実質的に終わります。
徳川慶喜は統治権の天皇へ返還、大政奉還によって明治政府が設立され、近代的な官僚制度を有する君主制に変わった。
芝尾

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