明治維新後、天皇の直接下にある中央政府、官僚組織が土地と人民を支配し、立法、行政、司法権を行使することになった。そして、伊藤博文を中心とする欧米を調査し、英国や米国は選挙で選ばれた代表に意思決定を任せる民主主義は国情に合わないとし、君主制にありビスマルク政権下のウィルヘルム一世治下ドイツを訪問し、ドイツ人顧問の助言を得て欽定憲法を制定している。
それで、名目に過ぎなかった天皇制が復活し、天皇の親政、つまり、天皇と言う君主の意向を周囲に居る中央政府の官僚が忖度して天皇の意思としてが行われることになった。
元々、薩長土肥連合が徳川幕府を倒壊させた経緯があるので、君主制になっても君主が独裁する形になった訳ではない。16才の明治天皇は教育係の西郷隆盛から「我儘を云うと京都に戻しますよ」と言われるぐらいであった。天皇家は、元来、実力を持つ武家との付き合い方には腐心している。しかし、今回の欧米列強の侵略に対抗する意味で普及した崎門学の引いた尊皇路線は国民全体の期待に沿う形になっている。それで、皇室も臣民も一体となって日本を護るために頑張る感覚を共有していたとしても不自然ではない。それ以降、概して日本はアジアの他の諸国が列強の侵略に難渋しているのを横目に近代化の波に乗った。
しかし、日本の近代化が軌道に乗り、日清戦争やロシアとの戦争に勝ち、列強に伍する様になり列強からの守勢から列強を真似て中国に侵略を始める頃になると、今までの一体感は無い。天皇の意思を忖度し、それに沿うように臣民が務めると言う曖昧模糊な意思決定、政策実施機関は機能しなくなる。軍、特に陸軍と言う官僚組織が、暴走し始めた。軍人と言う官僚はやはり、自己の栄達のために隙さえあれば突っ走ろうとする。官僚組織を巧く活用しようとすれば、優れたトップが居てコントロールすることが必要だが、それが非常に難しい。帝国主義の時代でも、有能な君主が統治する国では非常に有効に機能するのが官僚制度です。しかし、日本の天皇は昔からシンボルであって、時の権力者が恣意的に持ち上げて権威を利用したに過ぎない。しかし、明治維新によって、天皇は現人神=絶対君主として復活、ウィルヘルムI世治下のドイツの君主制度を見習ったが、第一次世界大戦でドイツは敗北したので、英国の王室を見習った。それで、天皇としては、議会や官僚、軍人との対応に苦慮されたらしいことは窺われる。元々、皇室は公家としての2000年に達する文化的な長年の伝統をもつので、軍など過激な行為は好まれない。しかし、民主主義の伝統を持つ英国では、議会、乃至は内閣(政府)の意向に沿うのが王室の仕事である。従って、臣下、つまり、政治家、官僚、軍人の意向を妨げないのが仕事とも思われる。逆に、軍人側は、国民の方向で無く、陛下のご意向に沿うのが仕事であるが、そのご意向は、専制君主ではないのではっきりとは示されない。それで自分勝手に、天皇の意図と思われるものを勝手に想像してどんどん進める。国全体の制御機能はない。
そのため、NHKで放送していましたが日本陸軍が張作霖の爆殺に始まって満州から中国全土へと、欧米の強い牽制も聞かずに軍人の独断で戦線が拡大し、遂には欧米に対し開戦するに至り、第二次世界大戦を敗戦で終えたことになります。
そこで、不幸な状況ですが、天皇の仕事は原爆を投下され、勝利の見込みの無くなった日本の戦争を停止する役割を果たされた。例の「忍びがたきを忍び、耐え難きを耐え、・・・」の玉音放送ですが、敗戦を決意し、それを当時の日本国民に受け入れさせることができたのは崎門学の描いた理想像、天皇にして初めて行い得た権威ある決断であったとおもわれます。戦争を継続すれば、沖縄と同様の地獄絵が本土でも起こったでしょう。僅か、300万人の戦死者で終戦にしたのは、明治維新に次ぐ2000年に亘る日本のエートスの2番目の、そひて最後の輝きであったと思います。
芝尾