私の総合知

私の総合知

人類は、その英知により様々な問題を解決しこれまで進歩してきたと考えられている。人類の生み出す様々な成果がいわゆる衣食住を豊かにしてきた、と。農産物、医薬、住宅、エネルギー、物流・移動手段、情報通信など、製品、サービスが、確かにあふれている。これらが人類が快適に、その生存を快適に豊かにして来たというわけであり、それが英知の結集の成果と言うわけだ。

ところが、今年、2010年は、生物多様性国際会議が名古屋で行われ、最近の環境問題と併せて、人間と生物の共存がいろいろと議論されているように、あらゆる生物の頂点に立つ(と思われている)人類の存在が、他の生存(成果)の上に非常に大きく依存していることが当然のごとく語られているが、さて、「人類の生存は、なにものぞ」とは哲学、神学の世界になり、語り尽くされることができそうもない。

生物学の世界で良く言われる、大自然の環境の中で、「自然淘汰」により強い者が生き残る、いわゆる『敵者生存』の議論がされる。これは「弱肉強食」では無く、「環境に適応する能力がある者だけが生き残る」というわけであり、巨大、強大な者だけが生き残るという言う単純な図式から、一歩、議論を進めた認識となっていると考えられている。急に卑近な話になるが、小泉元首相は、激しい経済環境の変化にはそれに迅速に対応できる適応能力がある者だけが生き残ると言うような事を言ったそうだが、それが現在の日本のあり様なのか、国の「総合知」を集めた結果の政策で適者生存が叶えられると言わんとしたのかもしれない。

ここで『適者生存』が至上原理であれば、それを考える人類が、すなわち「賢い(知的な)人間だけが生き残る」という図式ができそうである。もしかしたら、欧米のいまの閉塞的は状況をみると、あるいは、イスラムの社会と、キリスト教あるいは、ユダヤ教の世界の対立構造で説明もされそうな状況が、さらに第三の大国として現れてきている中国(中華思想の国家?)が、(ユダヤの世界のように、シンジケートを世界に張り巡らせていると言われているが)宗教にとらわれない彼らがひょっとして、適応能力のある存在としても位置づけられる可能性もあるかもしれない(勿論、アイロニカリーにではある)。

ここで、私とっての「総合知」とは何かと言う本論に戻ると、知的な者が生き残るという『適者生存』の至上原理があるとすると、それが知の総合の目的となると言うのであろうか。マイケル・サンデル教授が、発言に対し、これはカント、ヘーゲルのような考え方、それはアリストテレス的な考え方などと、分類しているような場面をテレビで見たことがある。これを、(時空を超えて)世界にはいろいろな思考パターンがあり、これらの知的なぶつかり合いの中で、いろいろな人類の抱える様々な問題、課題に対し知的に解決を試みることが大切だ、と言われているなのだろうと理解してみた。“意図”と“意図”のぶつかり合いが人類の世界で、『適者生存』という原理がここでも利き、それらの「ぶつかり合い」の中で生きる者の鉄則になろうとするのだろうか?

ならば、いかにぶつかりあいを少なくして賢く、「知的に」解決をする事が「総合知」の目的とする事なのであろうかと考えたりもする。

実は、私の「総合知」に対する認識は、この『適者生存』のための「知の総合」、『適者生存』の「知の集」を疑問に思うことから始まる。適者生存は人類以外の生物の世界では、必然かもしれない。願わくば、人類の世界では、適者でない存在も、存在意義を持つ・・・と言う事に、期待をもちたいと思っている訳である。67億人の人口を抱える地球での、最適では30億人が、循環型の持続可能な社会であると聞いたことがあるが、この為に『適者のみが生存しうる』という原理であれば、どの様なことが起きるのだろうかと思いめぐらす。

英国の元首相チャーチルが、「民主主義は最悪の統治形態だが、今まで試みたどんな制度よりましである」と言ったそうだ。この言葉をかりれば、今までよりましな「知」を追及する事が、我々の目標かもしれない。いずれ何億年後か、あるいはそんなに遠くない時期に、生存しうるか分からない人類が、何を以って適者生存原理が働くと唱えようとするか、それとも何が残っているのか。

残るのは(宿る)主体のない『知』だけなのか・・・

(平成22年10月26日に本ブログに登録)

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総合知学会事務局
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