松陰神社に寄せて

先日、偶々、松陰神社のそばを通り、立ち寄ってみましたが、松下村塾を模した思いの外小さな家が有りました。そこで、僅かに2カ年半、松陰は多数の維新の立役者を育てたわけです。松陰神社の立て札では彼が教えたのは君臣の義、華夷の弁、そして奇傑非常の人だそうです。

君臣の義や華夷の弁は現代の時代に合わないと思いますが、奇傑非常の人は、今までにない新しい考えやアイディアを出して、経験の無い非常時の問題を解決できる人です。これは現代でも必要で、渇望されている能力です。総合知は将にそのような新しい状況にも役立つものを目指していると思ってます。

芝尾

カテゴリー: 議論 | コメントする

戦後日本人官僚のエートス

民主主義の社会では、納税者に対し市場経済に載らない公的分野で納税者に向けてサービスを提供するのが政府だと考えられている。しかし、官は上を向いて仕事をします。これは、徳川時代も明治政府も変わらない性格です。崎門学に由来するエートスはお上の在り方を現人神の代理にまで助長しただけかも知れません。

終戦時、占領軍も軍や戦争遂行に関与した人々同様に財閥や不在地主は放逐しましたが、官庁や官僚は占領政策の遂行に利用した。上意下達の円滑な日本の官の在り方は便利だったのです。このため、納税者である民は選挙を通じて対等に政府と亙り合うと言うよりも、国家の庇護の下に生活出来ることを約束される代わりに、国家の指導に従うとスタイルは、戦後混乱の窮乏期やその後の高度経済成長期でも、経済の国家単位の成長が競われる時代でも国家主導の経済活動は変わりませんでした。

官尊民卑の流れは変わらず、そのため、国家無誤謬の原則が残っています。欧米では、法律を創った場合には、人間が創ったものだから失敗することも、又、不充分なところもあると考える。そのため、不備なところを発見すれば、その旨、申し立てする宛先や改定や廃棄の手続きがが記されている。

国家や政府の無誤謬の原則は、時にはとんでもない事態をもたらす。東海村のJCO臨界事故では、臨界量を超えて放射物質を処理したため核分裂の連鎖反応が生じ、放射能が発生した。当時、警察官僚出身で政府の安全等の最高責任者である内閣安全保障室長の佐々淳行氏は現地に飛び、住民の被災を防ぐために放射源から半径500mの範囲を立ち入り禁止にしようとした。ところが、現地の警察か地方行政の担当者から、立ち入り禁止の立て札を立てることを拒絶された。政府の行っていることに危険性があることを認めることは許されないと云うことである。住民の安全を守るために国家や政府、行政が有ると思うのだが、住民の安全を犠牲にしてまでも国家や行政の無誤謬性と言う建前を護ろうとするのだろうか。

国家の無誤謬性の原点は徳川家康も言ったことだが、「寄らしむべし。知らしむべからず」である。これは朱子学の元になった儒学の創始者、孔子の言葉で「施政者は民を頼らせるようにしなさい。但し、真実は民衆には教えてはなりません」と言う、民主主義的な視点から見れば、民を馬鹿にした許せない言葉である。しかし、形式的には立派な民主主義で選挙で代表は選ばれるのだけれども、結果はどうもと言われる政治の惨状、衆愚政治、ポピュリズムといってもよい、を見ると民主主義の在り方について考えさせられる。中国など一部の国が、未だ、自国は民主主義は早すぎると言って独裁的にふるまうのは周辺国には非常に危険ではあるが、困ったことに理解できる部分もあるのである。

芝尾

カテゴリー: 議論 | コメントする

戦後の日本人のエートス(4)

第二次大戦の終了後、そこで、国民は一億総懺悔して敗戦を終戦に言い換えてやり過ごしました。国民全体としては、例の被統治能力を利して、天皇の代わりに占領軍を仰ぎ見、荒廃した日本の経済復興に励みました。日本人に人気がある中国の周恩来首相をして、「僅か3カ月で民主主義に変ったと言う国民を信用できない」と言わしめた程です。

戦争責任者である東条英機等は戦犯として処刑されましたが、元々、東条英機氏は皇室に対する崇拝の念が大きかったから選ばれたのです。非常に有能な軍事官僚だったということですが、天皇が避けたがった米国との開戦に際して泣くなど本当の悪人とは思われない。しかし、中国からの撤兵を拒否して確たる勝算も無しに無謀な泥沼の第二次世界大戦に突き進むなど、宰相の器ではない。

外国の侵略に対する防衛の場合は、元の襲来に時宗や日蓮が、イギリスの侵攻にジャンヌ・ダルクが立ち上がったように、国民が一致団結して結束することは可能である。日露戦争までは日本もそうだった。

しかし、自分の実力と同等かそれ以上の敵に対して戦いを仕掛ける場合は、それなりの戦いのための合理性が必要であった。

エートスは環境への適応の過程で獲得した生き方で大成功することもあるが、環境が変わった場合には、それが過剰適応となって逆に破滅する、新しい環境の変化に追従出来ないのが決まりのようです。

特に、日本の場合は、崎門学の天皇を絶対視すると言うエートスは、その理想が実現しない間は有効であり得る。しかし、明治維新後、現実にそれが実現すると上官の命令は天皇の命令、お上の言うことには盲目的に従う、企業内では上司の指示は絶対となる。まだ、明治の時代は徳川幕府を何とかしなければと自分で考え命を懸けた人が残っていたのでよかった。しかし、理想が実現した後は、自分では考えないで盲目的に上に従うと言う人が多くなった、そしてそのような傾向に立ち向かえない状況が増えたのではないか。日本と言う狭い国土に由縁する、聖徳太子以来の絶対平和のエートスも又、物事の白黒を付けないで曖昧のまま残すのを得意とします。戦争を放棄し戦力を保持しない憲法の下で、自衛隊と言う世界でも有数の武器と武装集団を保持しています。憲法を替えないで条文解釈だけで米国の要望に応じた訳ですが、このような姑息な手段で物事を遣り過すばかりでは解決できない問題が有るわけです。

そして、今日の朝日(2011.1.29)にも金子勝が人生相談で「日本の社会ではみな衝突を避け、日常の平穏さを好む結果、いつも弱い者だけが苦しみや痛みを口に出せないまま死ぬことになります」と回答していました。この国では膨大な財政赤字がいつまで経っても先送りで解決しようとされないのです。

現在、選挙民が消費税増税等に冷淡なのは、高額の税負担があっても政府への満足度が高い北欧やオランダなどに較べ、政府に対する信頼が低いからです。

芝尾

カテゴリー: 議論 | コメントする

幕末からの日本人のエートス

明治維新後、天皇の直接下にある中央政府、官僚組織が土地と人民を支配し、立法、行政、司法権を行使することになった。そして、伊藤博文を中心とする欧米を調査し、英国や米国は選挙で選ばれた代表に意思決定を任せる民主主義は国情に合わないとし、君主制にありビスマルク政権下のウィルヘルム一世治下ドイツを訪問し、ドイツ人顧問の助言を得て欽定憲法を制定している。
 それで、名目に過ぎなかった天皇制が復活し、天皇の親政、つまり、天皇と言う君主の意向を周囲に居る中央政府の官僚が忖度して天皇の意思としてが行われることになった。 
 元々、薩長土肥連合が徳川幕府を倒壊させた経緯があるので、君主制になっても君主が独裁する形になった訳ではない。16才の明治天皇は教育係の西郷隆盛から「我儘を云うと京都に戻しますよ」と言われるぐらいであった。天皇家は、元来、実力を持つ武家との付き合い方には腐心している。しかし、今回の欧米列強の侵略に対抗する意味で普及した崎門学の引いた尊皇路線は国民全体の期待に沿う形になっている。それで、皇室も臣民も一体となって日本を護るために頑張る感覚を共有していたとしても不自然ではない。それ以降、概して日本はアジアの他の諸国が列強の侵略に難渋しているのを横目に近代化の波に乗った。

 しかし、日本の近代化が軌道に乗り、日清戦争やロシアとの戦争に勝ち、列強に伍する様になり列強からの守勢から列強を真似て中国に侵略を始める頃になると、今までの一体感は無い。天皇の意思を忖度し、それに沿うように臣民が務めると言う曖昧模糊な意思決定、政策実施機関は機能しなくなる。軍、特に陸軍と言う官僚組織が、暴走し始めた。軍人と言う官僚はやはり、自己の栄達のために隙さえあれば突っ走ろうとする。官僚組織を巧く活用しようとすれば、優れたトップが居てコントロールすることが必要だが、それが非常に難しい。帝国主義の時代でも、有能な君主が統治する国では非常に有効に機能するのが官僚制度です。しかし、日本の天皇は昔からシンボルであって、時の権力者が恣意的に持ち上げて権威を利用したに過ぎない。しかし、明治維新によって、天皇は現人神=絶対君主として復活、ウィルヘルムI世治下のドイツの君主制度を見習ったが、第一次世界大戦でドイツは敗北したので、英国の王室を見習った。それで、天皇としては、議会や官僚、軍人との対応に苦慮されたらしいことは窺われる。元々、皇室は公家としての2000年に達する文化的な長年の伝統をもつので、軍など過激な行為は好まれない。しかし、民主主義の伝統を持つ英国では、議会、乃至は内閣(政府)の意向に沿うのが王室の仕事である。従って、臣下、つまり、政治家、官僚、軍人の意向を妨げないのが仕事とも思われる。逆に、軍人側は、国民の方向で無く、陛下のご意向に沿うのが仕事であるが、そのご意向は、専制君主ではないのではっきりとは示されない。それで自分勝手に、天皇の意図と思われるものを勝手に想像してどんどん進める。国全体の制御機能はない。
そのため、NHKで放送していましたが日本陸軍が張作霖の爆殺に始まって満州から中国全土へと、欧米の強い牽制も聞かずに軍人の独断で戦線が拡大し、遂には欧米に対し開戦するに至り、第二次世界大戦を敗戦で終えたことになります。
そこで、不幸な状況ですが、天皇の仕事は原爆を投下され、勝利の見込みの無くなった日本の戦争を停止する役割を果たされた。例の「忍びがたきを忍び、耐え難きを耐え、・・・」の玉音放送ですが、敗戦を決意し、それを当時の日本国民に受け入れさせることができたのは崎門学の描いた理想像、天皇にして初めて行い得た権威ある決断であったとおもわれます。戦争を継続すれば、沖縄と同様の地獄絵が本土でも起こったでしょう。僅か、300万人の戦死者で終戦にしたのは、明治維新に次ぐ2000年に亘る日本のエートスの2番目の、そひて最後の輝きであったと思います。
芝尾

カテゴリー: 議論 | タグ: | コメントする

幕末の日本人のエートス(2)

徳川幕府は始め、下剋上など行儀の悪い武士を教育し、体制を強化するために、中国から儒教の集大成である朱子学を導入しました。それまでの武士の下剋上の気風を改めて、目上に盲目的に従う行儀のよい武士になるように、武士道を鼓舞し始めたのそのためです。
それまでの武士は、一生懸命=一所懸命、つまり、エネルギーや物質を農作物として取得できる土地を貰う為に命を掛けていたのです。例えば、元寇の折、上陸してきた元軍に対し肥後の住民、竹崎季長は先駆けを行い負傷しましたが恩賞が有りませんでした。そこで、自分の活躍を絵巻物にしてはるばる、鎌倉に出向き幕府に直訴、恩賞地を貰い地頭に任じられました。時の執権であった北条時宗はこのような一所懸命の、土地の為に命を掛ける侍こそ、来るべき元との決戦に不可欠だと考えたのです。しかし、徳川幕府は一所懸命の報償目当てに懸命になるのでなく、損得に関係なく主君に忠節を尽くす朱子学で進める忠義を勧めたかったのです。

歴史の不思議はそれに応える思想が、江戸時代の日本で独裁的な徳川幕府に不満を持つ人の中に現れて来たことです。朱子学の本家である中国の状況と万世一系、連綿と続く皇室の体制との違いに気付いたのが山崎闇斎を始祖とする崎門学の面々です。
元々、中国人は中華思想で自分たちが一番偉いと思い、周囲の部族は夷荻として差別していますが、明が北方からの金、清に侵略されます。中国は革命の国、政治が乱れると天命が次の権力者(侵略者)に移るのですが、それは夷荻が中華に置換されるに過ぎない。山鹿素行や山崎闇斎らはそのような中国の革命の思想を否定します。そして、革命によって君主が替わる本家の中国は中華ではあり得ず野蛮で、万世一系、連綿と続く皇室を戴く日本こそが本当の姿だ、世界の中心であり中華である-華夷の弁-と思い始めます。そして、君臣の義で天皇に絶対的に忠義を尽くすことと思います。

又、明の復興の為に無駄だと知りつつ奮闘した人達もいます。その一人だった朱舜水が日本の援助を再三望んで日本に到り、日本に亡命し、水戸光圀の知遇を得ます。そして、彼は、自分と同じ様に私心なく正統だと信じる王朝のために勝ち目の無い戦いに殉じた楠正成と言う日本の武士を見つけます。本居宣長等の国学が発達し、激しい尊皇思想が崎門学派や水戸藩の中に芽生えるのです。
勿論、水戸光圀は天下の副将軍、当初は水戸藩にとって武士を統制するには徳川家だけが征夷大将軍を拝命している天皇の権威を高めることが目的なのでした。
しかし、崎門学は富貴を求めないストイックな態度から広く支持されるようになり、又、海外への徳川幕府の対応への不信から、勤皇思想は一般に広まって行き吉田松陰のような指導者の元に維新の志士と言われるような人々も育って行きました。

ところで、徳川家にとっても危険になってきた尊皇活動に対し、井伊大老は安政の大獄と言う大弾圧を加え、水戸藩のような徳川家中でも勤皇の傾向を持つ有力者に対しても圧力を掛けます。しかし、井伊直弼は反発した脱藩水戸浪士と脱薩摩浪士によって桜田門外で打ち取られます。
紀州藩出身の将軍家持が病死した後は、水戸藩から慶喜が将軍になりますが、英明で豪胆と噂されたにも拘らず、鳥羽伏見の戦いに敗れると早々に戦場を離脱、大阪から江戸へと逃げてしまいます。勤皇の水戸藩で育った彼には錦の御旗に刃向かう気は最初から毛頭なかったのです。
それから先は、一気呵成に西郷隆盛と勝海舟の江戸攻めの談合、「お任せします」の一言で実質的に終わります。
徳川慶喜は統治権の天皇へ返還、大政奉還によって明治政府が設立され、近代的な官僚制度を有する君主制に変わった。
芝尾

カテゴリー: 議論 | タグ: | コメントする