坂本竜馬の「船中八策」は彼と同じ勝海舟門下の兵学者、赤松小三郎の「御改正口上書」を見て作ったもので、赤松が提案していた2院政には触れず時代に妥協したものだろうとのことですが、私もそうだろうと思います。赤松が提案した2院制もどれだけ彼が理解して提案していたのかはよく分からない点がある。
昔は貴族など旧勢力で特権階級の力が強かった時代は旧勢力を代表する上院と、税金を納める民の代表である下院が必要だったのですが、現在は貴族の力が無くなった今は2院政の必要性は乏しくなっています。逆に英国のようにそう昔でもない時期に、大幅に上院の権限を大幅に削って議会運営に支障がないようにしています。韓国のように初めから一院制の国や、大統領制と組み合わせて政治の空転を防ぐ仕掛けを講じています。不思議なことに、日本には二院制を導入するとそれを絶対視してこれを変えようと言う意見は出て来ない。現在の政治の迷走を正すための討論で、ある大学教授は2院政の前提の下では云々と言うお話で、元を正すような本格的な論争はなされませんでした。2院政だけでなく、巨額の財政赤字を放置するなど本質的な問題を先送りするこの国の行動様式(エートス)は、竜馬、幕末を基に少し探ってみましょう。
昨年末、TVで竜馬暗殺の真相は竜馬の師である勝海舟が黒幕であると尤もらしく報道していました。殺害した京都見回り組の一人の今井信男が海舟と剣道の同門であり、講武所の同輩であったとか。真実か否かは別として大政奉還後の首班が、竜馬の腹案としては徳川慶喜であったのは、徳川征伐を決意していた朝廷や薩長にとっては都合が悪かったかも知れません。しかし、時代に妥協して、徳川慶喜を新政府の首班に据える案を考えていたことが、幕府側の大政奉還を受け入れ武力攻撃を避ける決意させる強い要因の一つだったことは予想されます。そのため、先ずは円滑に、平和裏に権力の委譲が行われた。当時は、徳川幕府はフランスから援助を得て、英国の支援を得ている薩長を制する案もあった。しかし、そうはしなかった。確かに、竜馬も貢献した平和革命と言っても良い明治維新は、ある意味で2000年前から周到に準備されたエートスに基づいて当時の日本人が為した傑作でしょう。しかし、この損得抜きの生活・心的態度であるエートスは今尚、形を変えて残っていると思います。しかし、権威と実力の二重性を暗黙裡に制御するやり方は今後も有効かと言うと疑問です。
先ず、日本の歴史上、目に付くエートス(行動様式)としては、聖徳太子の「和を以って尊し」とする無条件の和平理論です。以降、天皇は実権を持つか持たないかは別として、連綿と万世一系の皇室が続きます。以降の権力者は尊氏にしても、頼朝にしても、家康にしても、皇室を倒して自分がそれに代わると言う中国の革命と言う方法は採りませんでした。新しい権力者が古い権力者を倒し、替わると言うのはヨーロッパでも中国でも当然です。
しかし、日本では形だけは皇室に臣従し、武家の第一人者である将軍に任命してもらう形で支配する形式を選んだ。それで、権威と権力を同じ人間には与えないで分離すると云うのが、日本の伝統的な手法になりました。士、農、工、商制度も同じで商人はお金を持っているので地位は最低、農民は40~50%も搾取されるけれども、武士に次いで地位は高い。富を待つ商人には、地位は与えられず、最も低い階級に満足せざるを得ません。
権力と富を喪った代わりに皇室が手に入れたのは、儀礼的な権威です。これは、中世ヨーロッパの法王の立場とも似ています。ローマのコンスタンチヌス皇帝が、キリスト教を国教として以来、キリスト教は市民に替って皇帝の正統性を保障する機関となります。それまでは、ローマ皇帝は市民の第一人者であることを皆に認めて貰うことで地位を保持していたのですが、これは大変な義務です。キリスト教を認める代償として、皇帝の地位を担保して貰うのであれば楽なものです。日本の武家も、皇室から依頼された形をとれば支配が楽だったのでしょう。
芝尾